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喬木の運命を生きた人 金関 丈夫 氏 |
一本の喬木が枝を張ってどこまでも伸びようとしています。伸びるに従って風あたりが 強くなります。しかし、枝を折られたり、葉を吹きとばされたりしながら、喬木は伸びて ゆきます。大きく伸び、枝を張るにつれて、彼は日光を独占し、地水を壟断します。周囲 の樹木はその犠牲になります。しかし喬木はそれに遠慮するということはありません。ど こまでも自分を高く高く伸ばそうとします。憎まれようが恨まれようが、喬木と生まれた かぎりは、それをやめることはできません。自分を生かすためには、他をかえりみるとい うことはありません。 古来多くの偉大な道者が、自分を生かすために歩んだ道は、そのようなものでした。世 間普通の眼から見ると、狂人とも、極悪無残な人間とも見られることがありました。俳人 芭蕉の導師であった仏頂という禅師がいます。その修行中に、郷里の母が病あつく、一度 わが子の顔を見て死にたいと、これを呼び迎えます。仏頂は馳せかえって、いま息をひき 取ろうとする母に、末期の引導をわたしました。 「母上よ、わたしの敵はあなたです。あなたはその愛情によって、わたしの修行の妨げ ばかりしてきました。食い殺して路傍にうち捨ててもあき足らないと思ったことが、幾た びあったことでしょう。」 母は黙して再びものを言いませんでした。周囲のものは、もちろん、彼を狂人なりとみ ました。 一休禅師が放逸無頼な言動によって周囲のど肝をぬいているのもこれです。面白半分の しわざどころではありません。出家の門出に、すがりつくわが子を縁がわから蹴落した西行。 みなこれによって自分を世間から遮断したのです。自分をまっすぐに立たせるためには、 この孤立が絶対に必要だったのです。喬木と生れた限りは、こうするより他はなかったの です。 キリストは母親に向って「女よ、われ汝となにの係わりあらんや」といいます。既に世情 の人間ではありません。石をなげられはりつけに掛けられる。イバラの道とはこのことです。 道者の道とは、すべてこれです。石とはりつけとは覚悟の前です。この道者が、結果として いわゆる宗教家になろうと、芸術家になろうとそれは単に偶然の結果にすぎまでん。そのど ちらにならないことも、あり得るでしょう。 私の畏敬して止まない雲道人は、こうした、真の意味での出世間の道者です。それが宗教 家であるか、芸術家であるか、はたまたその他の何者であるかは、私の問うところではあり ません。雲道人が処世の便法を一瞬でも考えたことがありましょうか。道人はおのれを憎ま せることに汲々としている人です。人々の憎しみの中から栄養をとって、自己の精神の食物 としている人です。古来の道者はみなこのような人々でした。道人は世間の評価の必要な人 ではありません。かえってその悪罵を栄養として、地を抜き天空に聳える大樹の枝を張る人 です。私ごときが、その人を云々する必要は毫もありません。日没して世情が晦くなるとき、 あらゆる矮小が影を没し去るとき、ひとり最後の残光を栄冠として梢上に飾る、喬木の運命 に生まれついた人です。 雲道人の芸術が、今日の世情の芸術家どもの作品から、自らをひきはなしているのは当然 であります。往古の偉大な禅僧たちの墨蹟は、その文字の姿態をもって人の目にこびるとい うようなものではありません。このことは人々はよく知っているはずです。彼らは字を書き、 書をのこすために生まれたのでも修行したのでもありません。しかしその養いぬかれ、鍛え ぬかれた精神が、その文字に表れないということはありません。これによって人々が時とし ては鉄槌を持ってするが如くに、心を打たれるのは、また当然のことといわなければなりま せん。 雲道人は絵を描き、書をかくために生まれたのでもなく、そのために生きているのでもあ りません。「そんなものは屁のようなものだ」と道人は自ら称しています。生理的のお必要 から放出しているにすぎない、というわけでしょう。今日人々の随喜渇仰する禅僧の墨蹟の 多くは、日常の必要から、何の心構えもなく書かれ、普通ならば反故になって消滅すべき運 命にあったはずの物でした。多少の心構えを以って書かれたものにしても、彼らにとっては 一場の戯筆であったに過ぎません。書道家などといって、人々の評価を気にするようなわけ のものではありません。 既にして屁であってみれば、人々が雲道人の産物を何と見ようと御本人にとっては毫も意 に介する必要はありません。世評を気にし、世間のおもわくを勘定に入れて絵をかく、今日 のいわゆる芸術家連中の絵とは、全然別のところで成立しているのです。感覚がどうの、機 知があるのと批評家めあての、そんなところで成立している作品とは根本から異なっている わけです。元来このようなことは、先ず道人の作品を見て、それによって感得、理解さるべ きことなのです。このような説明をきいて、それからその作品を見るというのは、順序が逆 なのです。私の解説は全然蛇足なのです。みずから感得するより他に、理解の方法はありま せん。どうぞ雲道人の書画を見てください。 * * 季刊『禅文化』 110号 |
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金関 丈夫 (かなせき たけお)氏 略 歴 |
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