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  雲道人の芸術



                           柳 亮 (やなぎ りょう) 氏        

                            
 



    

     私はめつたに書斎の壁へ、書幅をかけのべることをしない。床の間をはじめ、壁面の殆
    
    ど全部は書棚によつて埋め尽されているところへ、油絵や素描の額が、他に置場もないと

    ころから、ところせまく懸けならべられてあるので、適当な空間がないこともその理由の

    一つであるが、たとへ空間はあつても、大概の書幅は周囲と調和しないからである。

     唯一つの例外として畏友全鼎雲道人の紙本だけが、時折、そこへ顔をならべる、ゴヤの
  
    版画や、友人達の相当キメの粗い油絵の中に置いても、決して周囲に影響されることなく、

    超然と自己を主張しうることの出来るそれは稀有の作品だからである。
    

            *                     *
 

     私の家へは随分専門家も足繁く出入するが、その点では、殆ど一致して、皆が感心もし、

    不思議がりもする。しかし、それについては私は次のような結論に達している。


            *                     *
 

     すべて第一流のエスプリを有つた仕事といふものは、それ自身、独立した一個の宇宙を

    そこに形成しているのだから、周囲の条件によつて特にどうと云ふことはあまり無い。影

    響をうけたり反揆したりするのは、その作が独立した宇宙として充足して居ない証拠であ

    つてその宇宙的な要素が、強大であれば遂に周囲を圧倒し、支配する位のものである。

     西洋の美術館では、無数の作が、まるで絵馬をならべたやうに上下左右へかけならべら

    れてあるが、そのために相互の調和を失ふということはない。さればまた、雪舟の水墨が、

    近代風の美術館のガラス戸の中で依然たる幽玄味を保持し得ているのであり、支那の白磁

    が日本の床の間で本来の美を発揮しうるのである。

     時宜を超絶して、自主独往、いかなる時代に、いかなる場所へ置かれても、渾然と自ら

    充足し、自ら光るといふやうなものでなければ本格的な芸術品であると称せない。

     贅沢な表装によって掩はれ、床の間といふ広大な建築的空間を独占するのでなければ、

    その価値を保持出来ないといふような脆弱な仕事が、世間にはあまりに多過ぎるが、実際、

    さういふ風に、床の間といふ温室の空気にならされ、甘やかされて育つて来たのが今日の

    日本画なのである。


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     私の家のやうな茅屋では、一向例にはならないが、とくに私の家を引き合ひに出さなくて

    も、あの日本画くさい日本画感覚も様式も型に嵌つた日本画では、因襲的な床の間以外に置

    く場所はないのである。

     したがって、雲道人の絵が、私の書斎に於ても、十分周囲と調和するといふことは、その

    意味ではなかなか示唆的な事実だと私はいつも思つている。


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     雲道人の絵は、いはゆる日本画ではない、さりとて洋画でもない、強いて言へば世界画で

    ある。作者自身は東洋画と称へて居るがとくに東洋とか支那とかいふ範ちうのなかへ入れて

    考へなくても、いきなり世界という概念の中で考へてみることの出来る、それは、純粋に一

    個の絵画なのである。

     雲道人の芸術には、いはゆる様式はない。つねにそれは自己本来の姿である。言ひかえれ

    ば、それはそれみづから一個のプリミチーフなのである。そしてプリミチーフなるが故に、

    世界的な性格をもつのであると私は解している。世界のすべてのプリミチーフ絵画がすでに

    さうであるやうに。

     雲道人は絵ばかりでなく、詩書をよくし、てん刻、版画、漆芸、陶器、染色其他行くとこ

    ろ可ならざるはなしの多才さである。しかもそのどの一つと雖も、自家独特の工夫に出でな

    いものはなく、習修の跡を残しているやうなものはない。

     一芸万芸に通じるとは、まさにこれであり、その天分の豊かさには実に一驚を喫するもの

    があるが、元来釈氏の流れを汲む禅家の出である道人にとつては、それは平凡なことであり、

    些かも奇とするには足らないもののやうである。

     けだし、禅家の哲理は知らないが、あの行住坐臥を家とする雲水のこころが宇宙に住むと

    いふことであるならば、芸術の世界を世界とし、融通無碍にどこへでも闊歩することの出来

    る雲道人の多才さもあながち不思議ではないかもしれぬ。何故ならば、それは、世界に生き、

    万物に生き、古今に生きる、唯一の精神と法則の上に託された、一個の赤裸な生活の顕現に

    他ならぬ筈だからである。

     



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                   季刊『雲道人の人及藝』 

                     蓋天蓋地社版
 




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