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    街道をゆく 


              山陽道(西国街道)  岩国 

                                                      
                              
初春編







         四つ手網
                   
  




      岩国を語るうえで切り離すことの出来ないもののひとつに     

    錦川(にしきがわ)がある。この川は西中国山地から瀬戸内海

    へ流れる山口県下最大の河川であり、岩国市はこの下流に展

    けた城下町である。                            







 井堰にて















       

        清流を誇る錦川(にしきがわ)は透明度が高く、

      下流域でさえ水面から川底を見ることが出来る。

      早春は白魚漁、6月1日には鮎の解禁、それに伴い鵜飼も始まる。

      ライトアップされた城山を背景に錦帯橋のたもとで行われる鵜飼は

      幽玄そのもので、川面に映える篝火が趣を添える。

        またこれら山海の恵みは郷土料理にも及ぶ。

      海に近い大蓮田からとれた九穴の岩国蓮根と瀬戸内の小魚を具に、

      何段も重ねた豪快な岩国寿司(別名 殿様寿司)も名物のひとつ。

      さらに錦川の伏流水を利用した銘酒の古い酒蔵も残っている。


       岩国はまさに川の恵みを受け発展した町なのである。
           









水 路














川海苔採り














小瀬川(木野川)
      さて街道の話に戻る。



         浅野藩(安芸国あきのくに)との国境である小瀬川おぜがわ(木野川このがわ)を

        渡ると周防国(すおうのくに)小瀬(おぜ)に着く。この汀には吉田松陰の石碑が

        建っており、


          夢路にもかへらぬ関を打ち越えて今をかぎりと渡る小瀬川

      安政の大獄に連座し江戸護送の折、国境のこの地で故郷への別れを詠んだ松陰

        の心は如何ばかりであったろう。



対岸が周防国小瀬。
峠を越えて岩国城下へ向かう。
関 戸 宿







  ここより集落をぬうように急坂を登って
   いく。竹叢の山径に入ると、山陽道では
   幅二間(約3、9m)と定められていた道は
   ここでは一間にもみたない。小瀬峠を越
   えると関戸(せきど)宿に入る。ここは奈
   良時代より駅家が置かれた地で、現在
   も脇本陣跡が残り往時の面影を留めた
   家並みも散見する。






関戸宿を出て錦川越しに城山を
背後から見る


  ここからは面前を錦川がとうとうと流れ、
  その向こう岸に城山(しろやま)が見える。
  が、街道は左手の城下町には向かわず、
  反対の切り通しの道を川に沿って大きく
  迂回しながら進んで行く。丁度、城山の
  背後大竹林を眺めながら歩くかたちに
  なる。この竹林は錦川の氾濫を防ぐ為に
  植林されたもので日本三大竹林の一つ。



錦  川
         



















思案橋を過ぎ柱野宿へ向かう
.....涸川に沿って


   

  大竹林



    
しばらく進んで錦川の渡しを越え御庄(みしょう)宿、そしてやっと城下に向かう峠道への
     岐路に差し掛かった場所に思案橋(しあんばし)という名の橋が見える。そのまま街道を進
     もうか、岩国城下で遊んで帰ろうか、思案のしどころ、というのが名の由来だそうである。
     ここから錦帯橋まで約3キロ。峠も急勾配で随分遠回りをさせることと思う。
      柱野(はしらの)宿を過ぎ、周防国屈指の難所欽明路(きんめいじ)峠を越えてやっと
     玖珂(くが)宿に着く。この欽明路(きんめいじ)峠は万葉集にも詠まれた古い地名で

          周防(すはう)なる磐国(いはくに)山を越えむ日は

       手向(たむ)けよくせよ荒きその道

     古来より難所であったらしい。

     さて街道の脇に逸れたかたちの岩国城下に戻る。

  城下は城山
(しろやま)を背に、まるで外堀のように三方を錦川に囲まれた
   
  横山
(よこやま)地区と、対岸の錦見(にしみ)地区からなる。これには相応

  の理由があるようだ。

   岩国は国境であるため町は要塞化し、隣国に睨みを利かした点や、山頂
  
  から瀬戸内海上交通を掌握する役目も果たした。


淵より錦帯橋を見る

宇野千代の「おはん」の
悟が命を落とした龍江淵

   関が原の戦いに敗れた毛利氏は
   中国八カ国112万石の大大名から
   防長二カ国に減封された。その分家
   吉川広家(きつかわひろいえ)が出雲
   から入部し岩国に築いた城下が吉川
   6万石である。 6万石の城主とはいえ、
   吉川家は毛利本家との関係から明治
   2年まで藩主にはなれなかった。
三椏の花



















 
  吉香(きっこう)公園
  城山を見上げると瀟洒な天守閣が
   望まれる。しかしこれは戦後再建さ
   れたもの。江戸初期に築城された
   城は幕府の一国一城令により数年
   で廃城させられるという憂き目に遭っ
   ている。その後は横山地区に領主の
   居館を置き重臣の屋敷を普請させ藩
   庁所在地とした。今は吉香(きっこう
   公園となり、家老香川(かがわ)家
   長屋門や目加田(めかだ)家住宅など
   の武家屋敷を見ることが出来る。
   錦見地区では縦横に伸びた町割に
   中・下級武士や町人が居を構え、本瓦
   葺漆喰塗籠の虫籠窓を持つ町家も多
   く残っており、道行く人の目を楽しませ
   ている。
 目加田(めかだ)家住宅












錦見地区の町家 町家内の御坊

            
     
城山から眺める城下は実に美しい。錦川に架かる名勝錦帯橋きんたいきょう(別名五橋ごきょう)は

      延宝元年岩国藩三代藩主吉川広嘉きっかわひろよしの創設した城門橋で、不落の名橋とも呼ばれた。

      優美な曲線を見せ、川面はまるで五つの虹が架かったようだ。この木組みの美しい反り橋は巻き金と鎹

      で締め、釘で固定し頑丈に組み立てられている。中国で発明されたアーチ様の技術が岩国で木造反橋

      として結実し、日本の木造建築の粋が凝縮されている。
 
       二百数十年の歳月を尽くしその姿と叡智が今に伝えられてきたことに郷土の誇りを感じる。






             

      今年三月には半世紀ぶりの「平成の架け替え事業」も完了し、

      真新しい木の香のなか、盛大に渡り初め式が行なわれた。

        
       春は河畔の桜、牡丹園、 夏には菖蒲園、川花火、 秋は紅葉、

      小雪の舞う冬の川も美しい。

      岩国はどの季節も絵になる風景を持っている。


  





    
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     「俳句四季」2004.6月号
          街道の四季  山陽道 
         加筆、修正したものです。