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  夢自在 (不思議な縁)



                                                    玉田 太郎  氏        

                            
 



    
      私が雲道人さんを知ったのは、今を去る30年も昔、昭和45年であった。ある日、知人の

    警察署長Sさんが「相談に乗ってもらいたいことがある」と言って、連れて来られたのが

    雲道人さんであった。「実は雲道人の夫人が病床にあるが捗々しくない、どうしたらよい

    ものだろうか」、との相談であった。

     病名は脊椎カリエスで戦中戦後よく見られた病気なので、私も沢山経験していた。で、

    私は夫人を診察したわけではなかったが、病状について詳しく説明し、療養の在り方など

    指導したのであった。雲道人も「よくわかりました」と、喜んで帰られたのであった。

     後でお礼にと言って、一幅の自筆の書を送って下さる。それは半切に大きく「夢自在」

    と書かれていて、墨痕鮮やかな見事なものであった。「夢は自在です。医師には夢が必要

    です。自在に夢に遊んで下さい」との言伝であった。

     「夢自在」は私の意に叶う言葉である。私は元来ロマンチストでよく夢に遊ぶ。「そう

    だ、今後は俳句に於いても夢自在の世界を展開しよう」と、密かに心に期したのであった。

     さて、初対面の雲道人は黒づくめの和服姿で、頭は短髪だが顔には長い美鬚を蓄えた、少

    し憂い顔の哲人みたいな風格のある人であった。

     S署長によれば、署長の前任地・山口で趣味を通じて知り合った仲であるとのみの紹介で、

    職業については何の説明もなかった。私も、そこまでは深く聞きもしなかった。そして以後、

    全く交わる機会もなく経過する。S署長ものち退職され会う折とてなく、雲道人の消息は全く
  
    わからず仕舞いになってしまった。


            *                     *


 
     約十年の歳月が流れる。昭和五十六年の春の事である。私は所用あって、県庁の所在地

    山口に出張した。用事を済ましたあと、桜の名所・後河原の川沿いを歩いていると、路傍

    に「雲道人遺作展示場」の看板が出ているのが眼に入る。「あ、あの雲道人だ。そうだ、

    あの人は山口のひとだった。でも遺作品展とは。もう亡き人なのだ。そして遺作品とは何

    なんだろう」

     私は花見を止めて会場の小館に飛び込んだのであった。

     私は見た。そして知った。雲道人は日本画家であり書家であり、陶芸その他の芸術にも、

    手を染めている芸術家なのであった。既に有名人のようで、そのどれもが私の目をもって
  
    しても魅力的なものであった。私はもっと雲道人さんを知らねばならないと思った。
  
     過ぐる年、初対面の時、なぜ人物について立ち入って聞かなかったかと、悔やまれるの

    であった。

     取りあえず雲道人の死亡の様子や夫人の病気等、気になったので受付の人に尋ねたので

    あったが、あいにく展示の責任者が不在で何も分からない。又の機会に調べる方法もあろ

    うかと思って、会場をあとにしたのであった。

     そして、私の怠慢で「夢自在」の書に雲道人さんを偲ぶに止まって、忘れるともなく時

    は流れていった。


            *                     *



     光陰矢の如しで、また14、5年が瞬く間に過ぎ去った。思いがけない時に、思いがけない

    ことが起こるものである。平成8年の冬のこと、私は独りで京都に遊んだ。2、3の寺苑を見

    て廻る計画であった。偶然にも相国寺の前を通り掛かると、門前に「金閣寺所蔵雲道人遺

    作品展」の看板が出ているではないか。私はびっくり仰天。京都で亡き雲道人に遭遇出来

    ようとは夢にも思っていなかったことである。私はすぐに寺門に駆け込んだ。

     有るわあるわ。あの山口の作品展どころではない。水墨画、詩書を主体として陶磁器、

    版画、漆器、染色、篆刻等々、日本古来の芸術作品がずらりと陳列されている。素人の私

    の鑑賞眼を以てしても、みんな素晴らしく思えて圧倒される。又その凡てが金閣寺所蔵と

    は驚きである。私は早速受け付けにとって返し、「金閣寺所蔵雲道人」なる案内書を求め

    る。

     私はこの案内書を開いて、初めて雲道人の全貌を知ることが出来た。雲道人は一流の芸

    術家で既に有名人であった。無知の故に、又、知ろうともしなかった故に、初対面より20
  
    有数年の間、全く関知することなく刻を過ごしたことが後悔されるのであった。
  
     でも陳列の作品を鑑賞して認識を新たにすることが出来たことは、遅きに失したとは言

    え、嬉しいことであった。

    ここに至って「夢自在」の書は、私にとって無二の宝となったと自覚する。

     案内書により雲道人と金閣寺との関係も理解できた。雲道人が京都にて活躍の時代に、

    当時の金閣寺住職・村上滋海長老が後盾となって、各種作品を収集して金閣寺に保管して

    おられるのである。

     ここに案内書にある雲道人の履歴の概略を抜記しよう。
  
     雲道人 明治13年生まれ、若くして仏門に入り、修行して雲水となり、後俗界に還り芸術

    の道に進まれる。東京、京都その他の地を遍歴し、書画・陶芸その他の芸術作品をものし、

    その各々に天賦の才能を発揮して名を成される。大東亜戦争終結の前年になって山口に疎開

    し、小鯖に雲庵を結び、そこを終焉の地とされたのであった。

     姓名は小林全鼎と言い、号を雲道人と称し、山口にあっては雲老、雲翁と落款しておられ

    る。二度の結婚歴があって、後の夫人との間に四男一女を成し、長男のみが陶芸家となり父

    業を継いでおられる。
  
     山口時代に、夫人が前記のようにカリエスに罹られ、私との接触の機会が生まれたのであ

    った。しかし、その会見の二ヵ月後に雲道人は覚悟の上の自害をしておられる。行年80歳で

    あった。その死の原因については記載がない。


            *                     *



     さて二度あることは三度と言う。又、灯台もと暗しである。私が京都で雲道人の人と成り

    を知ってより又2、3年が過ぎ去った。つい最近のことである。私は所用あって知人Hさんを

    尋ねた。用件を終えて雑談に入ってから、何かの弾みで私が雲道人の書のことを持ち出すと、

    Hさんが「その人なら知っています。息子さんが岩国に居られたことがあります。今その人
 
    の寓居がありますが、そこで雲道人の書を見ました」とのことである。ここで、又私はびっ

    くりする。雲道人の子息が、この岩国の住人であったなど思っても見なかったこと。よく聞

    けば、その子息は雲道人の長男で小林東五と言い、今は対馬に在って窯元を有する陶芸家で

    あるとのこと。「ついこの四月には、東五さんの陶芸作品展が、広島の福屋デパートで開か

    れていたので観てきました」と言って、手元にあった『対馬小林東五展』なる案内冊子を見
 
    せてくださる。

     見れば正しく雲道人の長男である。案内を見ると東五さんは父君の死後、韓国に渡り高麗

    三嶋焼について勉強し、独特の芸風を習得して帰り、対馬に對州窯を再興し製作に余念のな

    い、既に世に嘱目されている新進気鋭の陶芸家である。この父にしてこの子ありと言えよう。

    写真で見ると見慣れた萩焼などとは又違った風格のある陶芸作品が載っている。

     私は東五さんに会わなければならない。会って父君のことをもっと詳しく聴かねばならな

    い。と思ってHさんに教わった寓居に電話すると、留守番の管理人がいて「東五さんは時々

    岩国に来られるから、その折お会い下さい」との返事であった。

     東五さんは留守であったが、寓居にある雲道人の書をお見せするとの快諾が得られたので、

    訪ねて扁額に入っている書を見せていただく。「夢自在」と同類と思うと、親愛の情一入湧き

    おこるのを覚えるのであった。その際、気になっていた雲道人夫人の消息を聞くと、管理人は

    よく知っていて「東五さんの母堂は今は元気になられて、山口小鯖の雲庵に在って夫君の位牌
  
    をお守りしておられます」とのことであった。
  
     これ又驚きである。カリエスを克服して元気になられたのだ。消息がわかって長年の不安な

    思いが吹っ飛んだのであった。


            *                     *



     次々と機会が訪れて、回を重ねる毎に対象がはっきりしてくることがあるが、私の心に

    雲道人がなくてはならない人物として印象されて来た道程がそれである。

     そして知れば知る程、凡てが知りたくなるのが人情であろう。私は孤高の芸術家雲道人

    を思う。そして、もっと知りたい。私は東五さんに会える日が待ち遠しい。仏教の因縁で

    はないが、縁とは不思議なものである。偶然が必然を生む。そこには目に見えない因縁の

    糸が渡されているのであろうか。一期一会より発した不思議な縁の発展を覚えずにはおら

    れない。そして「夢自在」である。


                               ( 平成12年8月30日記 )

                         『医家芸術』 平成12年11月1日発行 





         玉田太郎 先生は2005年2月にご逝去なさいました。

         謹んでご冥福をお祈り申し上げます。









        その後、玉田先生と東五先生は当地の蔵元「五橋」酒井さまのお宅で
        お会いになられました
        玉田先生がお訪ねになられた東五先生の寓居はただ今の「玄」でございまして、
        あの折の玉田先生のお姿が今も思い起こされます。
        
        はるか昔のことでございますが、
        雲道人先生もよく岩国に見えられ、私の父なども伺候させて頂き
        楽しくお酒を頂戴しましたのも懐かしい思い出です。





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