徒 然 に..

 

   小林 東五 

        父  翁

                              「蚯蚓の呟き」より抜粋 

 

    


    
     先考 雲道人は七十八歳の生涯を自ら閉じた禅者で、その最期は恰も隣の村にで

  も遊杖を運ぶかのように瓢乎と去って逝った

    終生、禅の道を求め、その境涯を詩、書、画、篆刻等に注いだ芸術家としても知

  る人ぞ知る存在であった。

    十六歳で禅門に入ったが、当時の叢林の荒亡に失望しての還俗だったとも聞いた。

  晩年の述懐としては「やはり若気のいたりであった」と語っていた。還俗してから

  も禅を修め、東洋文化を基盤として生きたのだが、当初、泰西に目を向けて油彩を

  描いていたので洋画畠の知友も多く、その中でも岸田劉生との関わりは深かった。

  彼が宋元画に傾倒したことも先考雲道人の影響が大いにあったからのようだ。



  

    思想界にも交流が繁く、西田幾多郎、鈴木大拙。漢学では、釈清潭、仁賀保香城、

  角田孤峰。書、篆刻界では、河井(セン)廬、川村驥山等々、錚々たる顔ぶれが周囲

  であった。

   中でも美術評論家の柳亮とは心契の間柄で、氏は雲道人の絵を世界画だと評してい

  るが、一個の地球を東西に二分した考え方を不本意としていた当人にとっては知己の

  言であったであろう。

   雲道人は、中・晩年に及んで「割りきることは甘い」とその胸中をよく人に語って

  いた。

  「雑然の美」こそ彼の到達した絶対の世界であった。

   デッサンを度外視し破墨を以って揮灑(きさい)された山水は彼の胸中の逸気が山と

  なり水となり雲煙となって渾然一体の独自の天地を現出させるのであるが、雲道人は按

  ずるに大川山河の新たなる創造主に変化(へんげ)して、触所為景の妙境に遊戯(ゆげ)

  したのではあるまいか。

   

雲道人作「秋山遊讌図」京都北山金閣寺蔵

           66.0cm×64.5cm


    

      雲道人は生涯、清貧に甘んじ世外の人だったが、酒が入ると可成りの猛獣ぶり

   を発揮して、多くの人たちを困らせたことも事実だが、恨むらくはその事のみが

   伝わって肝心の遺作はあまり顧みられないのは残念なことである。

    唐の詩人、李賀は質性、人との和が保たれず、怨みを持つ者が死後、彼の遺族に

   とりいり、詩稿を借りて来て便所に投げ捨ててしまったとか、それほどではないに

   しても何故か、そんな物語を思い合わせるのである。
   

 

    今東光とは終生のつき合いであったが、彼はその輓歌に

   「君は世に容れられなかったのではなく、世を容れなかったのだ」と切々と歌って

   いる。
     

      悠々たる古(いにしえ)を遡り、師を求め、友と契り、人類、いや地球の未来を

   も見澄せようとした雲道人にとっては現在の群動はものの数ではなかったかに思え

   るのだ。

    しかし「作品は人なり」という、自ら放つ光は蔽ふべきもあるまい。

    二十世紀に、このようなひとりの人が生きていたという證(あかし)の話である。

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