徒 然 に.. |
小林 東五 講演 井戸茶碗についての考証
「蚯蚓の呟き」より抜粋 |
( 質問 ) 「先生、いいですか。あの奥高麗の茶碗が一つありますが、あと井戸茶碗がありま すが、井戸鉢ですけれど、土と釉は昔と同質のものなのでしょうか」 はい、これは私も今まだ研究の過程なので結論は出ませんが、私が現在たどりつ いたところは大まかは接近していますが、まだ中途半端なものだと思っています。と 言うのも何しろ先ほどお話し致しましたように産地も不明だし、そして使った原料の 文献も残っていないのですから白紙の状態から傳世品を見、それらしき陶片を発掘し てそれを頼りにひとつずつデーターを採っているのです。
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今のご質問の答えになるかどうか分かりませんが、要するに井戸釉は釉石と木灰に よって造られるまことに単純な釉なのです。しかし、釉石も木灰も一口に単純と申し ましても厳密に言えばそれぞれ夾雑物を含んでおります。つまり音楽で言えばフルー トの独奏ではなくオーケストラなのです。私の経験では夾雑物によって釉は底の深い 味わいを呈するように思います。この発想はどういうところから出たかと申しますと 純粋なものも素晴らしいのですが混血の種族は優秀なのが多いのです。これは人間の 世界にも言えると思います。要するに夾雑物が多い原料を用いるところに玄妙なもの が生まれてくるように思います。つまり釉でいえば土灰釉などはその典型でありまし ょう。
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私は師匠につくことが生まれつき嫌いなのです。何故かと申しますと私がまかり間 違って達人にでもなった時、「あいつは俺が教えてやったのだ」と言われるのが厭な のです。それを言うのは大変好きなのですが、まことに身勝手なことだと自身でも思 っております。まあそういう理由により私は無師で本当に一から独学でこの辺まで来 たのですが、ただ私が師としたのは陶片だったのです。
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陶片というものは不思議なものですね。窯址に行きますと、物原に三、四百年前の 陶片が散在しています。それを掘ったり拾ったりするのですが、私はある時期、疑問 を感じたのです。たとえば四百年間土に埋ったまま酸化した陶片を眺めて「これは素 晴らしい」と感動していたら変なことだと思いついたのです。要するに一歳の子が八 十歳の老人になってしまっているのです。それを見て、これは昔のものだから素晴ら しい、と感心していたら見当違いなのです。そこで私は、有機物と無機物の差という ものに思い当たりました。
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人間は歳をとったら再び赤ちゃんに戻れないのですが、土や石は随意に戻すことが 可能なのです。ということは仮に破片を拾ってきましたら、それを三つくらいに割り まして、当時焼かれたであろう温度を想定して各10度くらいの差で焼成してみるので す。そうしますとまた「蘇る」のです。「復活」するのです。そして適温焼成の陶片 を基準として照合しながら試作を続けていくのです。
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例えば、現在東京国立博物館蔵の有楽井戸茶碗がございますね。あの立派な茶碗を見 まして、あれが有楽井戸茶碗が生まれた時の状態だと思いましたらそれは違います。凡 そ似ても似つかぬものに近かったと思うのです。更に三井文庫に蔵されている三好粉引 茶碗という粉引手を代表するお茶碗がございますが、この茶碗も私は三井文庫のご好意 で拝見させていただいたことがあります。私はその時に思いました。往古の茶人は素晴 らしいなーと感嘆しました。それは当時幾多の茶碗の中から「育つ茶碗」を取り上げて 二百年、三百年の先を見定めた眼力の高さに敬服したのでした。
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粉引茶碗の胎土は鉄分が多いので焼成時、化粧掛けを通して鉄分が点点と吹き出て来 ます。恰もそばかす美人なのです。現代の私たちだったら「物原」に投げてしまうよう な物なのですが、それが茶人の育みによって自然に茶の染みと相俟って無限の趣を呈し ているのです。
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私はこんな光景を思い浮かべました。 いたいけない児が路傍で無心に泥悪戯をしている姿を真人が見て「ああ、この児は将来 英俊に育つ」と予言をしてその通りになったお話のように、一個の茶碗とその人との出会 いは実に劇的なものを感じます。 そして茶碗は一人の人が素晴らしいと思っても代が替わるとそうはゆかぬこともあります。 お父さんの茶道楽を恨んで、旧蔵の茶碗を溝に捨てた倅もいます。しかしたとえ万人を納得 させる力を持った茶碗でも天災や戦火で失せていくものもあるのです。そうした無常の時の 流れにあって彼の「喜左衛門」も「細川」も今に光を放っているということは、これは日本 が生んだ茶道文化の碩果(せきか)でありましょう。
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最後に当展観図録のご挨拶文にも書いたことですが、近頃、福岡で飛行機に乗る前の時間を 活用して福岡美術館で開催中の松永耳庵翁のコレクションを見ました。そして久方ぶりに有楽 (うらく)井戸茶碗に対面しました。ところが有楽井戸茶碗が実に気の毒なほどに見えたので す。恰も刑務所から出所して窶れ果てた人のように私には映りました。これはやはり博物館の コンクリートの部屋に入れられて以来、松永耳庵翁の慈愛に充ちた温かい掌を忘れまいとする あの茶碗の孤愁のしからしむるところだと思いました。 そして、お茶碗はやはり魂を持った生き物ではないかと痛く感じた次第です。 つまらないお話で申し訳ございませんでしたが、時間が来ましたのでこの辺で結ばせていた だきます。どうも御静聴いただきまして有難うございました。 ( 平成13年12月4日 ギャラリートーク 於 日本橋三越本店美術特選画廊 )
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