徒 然 に..

 

   小林 東五 講演

        井戸茶碗についての考証

                              「蚯蚓の呟き」より抜粋 

 その1

     小林東五でございます。本日は、大勢の皆さまにお集まりいただきまして大変

   嬉しく思います。これから、「井戸茶碗についての考証」ということで少しばかり

   お話をさせていただこうと思いますが、何分にも才無くしかも浅学なものですので、

  皆さまのご期待にそえるようなお話が出来るか否か分かりませんが一生懸命努めさ

  せていただこうと思います。

  

    その前に申し上げたいのは、私の敬愛してやまぬ今は亡き洋画家の先生が、マチス

  の言葉なのだそうですが、「絵描きは舌を断じろ」という一語を教えて下さいました。

  これは私が勝手に解釈しますと、物を作ったり絵を描いたりする人は、作品そのもの

  が総てを語っているのであって本人が喋ることは無用である。作品を満足に作ることが

  出来ない人は喋るしか能が無いので喋っていたら良い、とこのように解しております。

  従って、今日ここで私がいろいろとお話をするということは、つまりはそうした意味で

  先生の意に反するかもしれません。この辺をご理解の上、今からのお話をお聴きいただ

  きたいと斯く思います。どうかよろしくお願いいたします。

 

   

    まず最初に。皆様方も井戸についての知識は充分おありと思いますが、私は特に、

  井戸茶碗について韓国に渡りまして幾星霜、あちらこちらと古窯址などを訪ねたので

  すが、如何せん未だに此処がはっきりした井戸茶碗の窯址だと断定出来るところが見

  つかりません。ということは、井戸茶碗は、つまり極めて短い期間にのみ特定の場所

  で作られたものだと思います。何故かと申しますと韓国の長い歴史の中で美術、工芸

  を中心に眺めてみましても、俄かに出現してすぐ消えたというものが少ないのです。

  長い歴史の中で生まれた一つの様式は皆が造り皆が守るという民族なのです。ですから

  お茶碗を例にとっても、熊川(こもがい)形のような使いやすい器は韓国全土で材質こそ

  異なれ沢山発掘されますが、井戸茶碗だけは出てまいりません。     

 

   

     これは、(文禄・慶長の役)当時、日本の武将茶人たちがある特定の窯で、ああ作れ、

      こう作れと指示して出来たものが大半ではないかと思うのです。従って井戸茶碗は

   雑器だったという論は通用しなくなって来ます。というのも梅花皮(かいらぎ)と呼ぶ

   高台の辺に釉が縮れた様相は、これは明らかに韓国の美意識から外れたものなのです。

   私は韓国の人たちと仲良くお付合いをさせていただいたのでよくその気性が分かるの

   ですが、梅花皮は当時焼きそこないの見本のような扱いをされたと思います。ご承知

   かと思いますが太刀の柄のところに見られる鮫の顎のところの皮が梅花皮によく似て

   いるので武将たちが喜んだものと言われています。

 

    

      それと惜しくも亡くなられた戸川宗積先生にお聞きした話なのですが、曽て私が

   喜左衛門井戸茶碗を手にとって見たいものだと申し上げたら「オッ私が連れて行って

   やる」と言われて孤篷庵にお連れ下さり、忘筌という茶席で大井戸茶碗、喜左衛門を

   拝見させていただいたことがあります。その帰り道、梅花皮について貴重なお話をし

   て下さいました。先生が仰るのに韓国では蛙のこと「ケグリ」と言い、卵のことを

   「アル」というが、これを連ねると「ケグリアル」になる。この発音が日本で変化して

   「カイラギ」になったのだと話して下さいました。春先に水の中にある蛙の卵はまこと

   に梅花皮に似ているので、これは実に当を得た話だと思ったことでした。

 

     

      梅花皮の話はこの辺で割愛させていただきますが、井戸茶碗の生まれたであろう所が

   慶尚南道の河東にあります。この付近から質の良いカオリンが今も産出されますが、こ

   の土は非常に耐火度が高く土鍋などを作るのにも大変適した土です。私はその土をある

   会社のお世話で釜山港から多治見に運び、税関を通しまして再び船に載せ対馬厳原港で

   降し更に陸送で窯まで運んでいます。それで造った茶碗がこちらに陳ぶ一連の井戸茶碗

   です。この井戸茶碗というものはご承知の如く大井戸、小井戸、青井戸といろいろな種

   類に分けられます。小貫入も井戸の中に入ります。

 

    

     ここで大井戸茶碗に話を絞りますと、大井戸茶碗には非常に約束事が多くありまして、

   先ず最初に寸法から申しますと、15,5センチから16センチまでなのです。高さが約8セ

   ンチから9センチ、高台の径が5,5センチ、その高さが2センチくらい。高台の内が

   兜巾になっておりまして、そして見込みがずっと深くて器壁に四段の轆轤目が走ってい

   るということ、釉が枇杷色であること、目方が大体340グラムから360グラム位の間で、

   この条件を充たさない茶碗はお茶の道に適さないということになります。

    やはり古の茶人は自然体で重みも寸法も全てお茶の道にきちんと合うような道具や

   茶碗を取り上げて来たのだと思います。

 

     

     ところで、今の話の中に出ました四段の轆轤目のことなのですが、作る人が一生懸命に

   四段の轆轤目にしようと思うことは間違った考えで、使える茶碗を作ったら結果的に四段

   の轆轤目になるのです。つまり反対なのです。ですから、このような見方をされる従来の

   学術的立場の方たちと実際に作る側とは自ずからそこに食い違う点が出てくるのです。

 

 

    さて、喜左衛門井戸茶碗にお話を戻しますが、この茶碗を拝見した時に思ったのですが、

   喜左衛門井戸茶碗には一つの欠陥ともいうべき個所があります。つまり具体的に申します

   と高台脇のところが薄いのです。なんで薄いのかなあと考えていましたら、ある日のこと

   発想を逆にしてみてよく分かったのです。昔の朝鮮陶工の茶碗の作り方は今日とは違った

   方法だったのだと思いつきました。

 

    

      我々は先ず轆轤で挽いた茶碗を一端切り離しまして半乾燥を待って逆に返して高台を削る

   というのが常識となっていますが、そこが違っていたのです。轆轤を挽いた直後は形が整っ

   ているけれども次第に乾燥する過程に於て高台部分に水分が下りてくるので上部だけが乾い

   て縮まってゆきます。高台が極端に大きく見えてくるのですが、その時点に於て高台を削っ

   たら最終的にバランスが取れなくなるのです。ですから轆轤挽きをした直後の切り離さない

   前にすぐ脇を削ってしまっているのです。その直後高台の下から箆を斜めに入れて抉り取る

   ように切り離したから兜巾が出来るのです。

 

 

              

 

 

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